現代の40代はまだまだ若い世代です。働き盛りとも呼ばれます。でも、日本では働けていない人が多いのが現実です。仮に働けていても非正規雇用で明日をも知れず、漠然とした不安に駆られて生きている人が増えています。
人生において自分自身が上手くいっている時期はあまり気にならないことも、イザ自分が悪い立場になったとき、初めて気が付くことが多いと思います。40歳を超えてもそういうことがある訳ですから、これが30代や20代という人達が分からないことは自然です。
個人的に振り返って考えても、20代の頃に絶望した事柄って、意外と30代では克服できたり些細な事に収まることが多々ありました。これは40代でも同じで、30代の頃に苦しかったことは、今振り返ると苦しいよりも幸せだったなーと思えることばかりです。
50代になれば40代も同じように振り返れるでしょうし、これは死ぬまでずっとそうだと今では信じられます。だから、あなたが例え何歳であっても、10年先には些細なことと考えられるハズなので、あまり深く悩まないことです。
ここでは「あきらめて生きる」ことで無職、病気、離婚、解雇、介護、様々な苦境を脱するにも役だつと思い具体的に書いてみました。
なかなか難しいですが、どうしても苦しい時間を抜け出すために、前向きになるために、こういったことを想い生きています。同じような境遇の人にお読みいただければ幸いです。逆に人生上手く行っている人は読まなくても理解できるでしょうから別のサイトへどうぞ。
四十にして惑わず
この言葉の意味を理解するのに40代は終わって50代になる頃でしょう。これは孔子の論語の一部です。
「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」
ウィキペディアやネットで検索すれば意訳も解説も簡単に知ることができます。
自分に置き換えてみて、どう思いますか?
- 孔子は15歳で学問を志した。
- 36歳で学問の基礎が出来て自立ができた。
- 40歳になって迷うことが無くなった。
- 50歳には天命を知った。
- 60歳に人の言葉を素直に聞けるようになった。
- 70歳で思うままに生きても人の道から外れることは無くなった。
これを現代人と比較しても意味はありませんけど、敢えて順番にみてみると、孔子って意外とダメな人じゃないか?ってことです。
現代人と当て嵌めてみる
15歳で学問を志すというのは自主的に勉強すると考えると、皆さんも高校受験辺りから強制的な勉強から自発的な勉強に切り替わったのではないでしょうか。私自身もその頃に学ぶ楽しさというか、学ぶことに価値を見出した時期です。受験だけではなく、自発的に知りたい事の本を読み始めたのもこの頃です。
中には学校だけで勉強なんてしたくも無ければ、しない、これからも本など読まないという人も少なくありません。色々な学び方があるので全ては否定できませんし、何が良いのかは人それぞれで良いと思います。ただ、読書は非常に合理的なもので、自分で全ては経験できないので、その一部を補うために本を読むわけです。一人で出来ますからね。非常にコスパも良いですよ。
孔子は36歳で学問の基礎が出来たというのは現代では大学卒業くらいのことでしょうか。
当時の社会を考えれば、なかなか勉強ばかりはしていられないでしょうから、ここは現代人の方が優位です。
ただ、自立というのがあるので、孔子の仕事柄「一人でやっていける=学びながら生活できる」という状態が36歳ということだと思います。
これは現代で考えると大学の准教授とか副主任、副支配人等々、副が付く役職の状態かも知れません。副であっても生活は可能です。次は副が取れる状態へ向かって自立していくと考えると、確かに30代前半〜30代中盤の頃かも知れませんね。
そして問題の「40歳で迷わなくなる」
これがなかなか難しい。そして現代でもこの40代で未だに迷う人が後を絶たないと思います。私も同じですし、この記事をお読みいただいているあなたも同じでしょう。
特に現代では他の道もたくさんあり、どれもが全く不可能ではないと思います。それなりに学歴もあって、インターネットといった世界も活用すれば、孔子の時代と比べれば比較的簡単に人脈も広げられます。お金に至っては他国と異なり、すぐに飢え死にすることもありません。
それだから迷うということも言えますが、そもそも生き方に迷う人は、現代においても仕事ができる人だと思います。厳密には器用な人でしょう。
どれもこれもそつなくこなしてしまう。器用貧乏という言葉もあるとおり、あまり金銭的にも恵まれていないでしょう。(器用貧乏はまた別の記事で書きたいです)不運なハズです。
また、何かのエキスパートでもないでしょう。孔子もまたそういう人だったと私は思いますが、どれか一つに絞ったことで迷わなくなった、または迷わないためにも敢えて一つに絞ったのではないでしょうか。
他の色々な事を諦めることが出来たから、エキスパートの道へ進むことが出来る。そう思いませんか?
この先は考えない
現在40代の人は50歳から先のことわざも必要ありません。考えても答えは出ませんし、孔子のようになるとも限りません。本質的なことわざですから、およそそうなるのでしょう。しかし、現代では70歳でも仕事しなければならない時代です。孔子の言葉もズレていくのは当然だと思っています。孔子の70歳ネタは80歳で丁度良いくらいです。
一点集中
迷わずにエキスパートの道へ進むのは、まさに一点集中突破です。ここでのエキスパートというのは、他を寄せ付けないくらい突き抜けていなくても、他の人に比べればエキスパートで充分だと思います。
それでは足りない?
仮に足りなくても日を追う毎に差が広がるため、放っておいてもエキスパートになるんですよ。
何故かというと、その比較対象の人は別の道のハズです。決して追いつくことも無ければ、追いつこうともしません。だって別の人生ですからね。
では、同じ業界や会社だとしたら?
その人に負けないようにする必要は全くありません。同じ職種であってもその中で通用する能力は更に細かく分類されるため、得意としている仕事だけは負けないハズです。
例えば営業職だとして、金額ベースでの営業という仕事は負けるかも知れません。人の上に立つ人としての能力にも関係ないので、年齢が来れば立場が逆になることもあります。
サービス業で言うと、私はそれなりに英語は喋れます。しかし、ビジネス英語としては未熟ですし、帰国子女が居れば到底叶いません。そういう人の前では話せるなんて気恥ずかしく思ってしまうでしょう。
しかし、日本では英語が操れる人はそうそう多くありませんから、それなりであっても大きな武器になります。特にサービス業はインバウンドの影響で、人手が足りていません。
そもそもサービス業は誰でも就ける仕事のため賃金が安く、お客が居る限りは仕事をしないとなりませんからサービス残業のオンパレードです。(サービス業の名の通り仕事も無償サービス入り?)
単純にサービス残業代を国内で全部請求したら日本は破産でしょう。それだけ当たり前になっています。
この英語を多少操れる技術だけで私個人はどれだけ助かったことか説明するまでもないです。
でも、中学英語なんですよ!
発音が通じないとかはいつもの事ですし、上手く言えなくて思惑通りに事が運ばないことも多々ありました。それでも喋れない人からしたら「スゴイ」と思われるのです。これを突き詰めてエキスパートの道でもアリだと思います。
海外へ行って英語を習得して、新しい仕事に就く。素晴らしいことだと思います。
こういう風に一点集中突破は迷っている40代には効果的です。思いも寄らない行動で人生が変わることは多々あります。この辺は昔と違い、現代の方がやりやすい環境だと思います。
迷わないとは
迷わないというのは、己を知ることだと思っています。
自分の何が得意で何が苦手か、何を優先して、何が気にならないか、このことは年齢を重ねれば差は広がって行きます。だから自分の良さを自分が良く知ってあげて、それを活かす生き方のみに絞っていけば、自ずとやるべきことが目の前に現れるでしょう。
そうは言ってもまだ迷っている?
ええ、私もずっと迷っていますからよく分かります!
反対に考えてみましょう。
迷うということは、それだけ選択肢が多いということも言えますし、どれを選択してもあまり変わらないから決めかねるということだと思います。
ABC分析とかありますよね? Zの商品などは1点くらいしか売れていないからメニューから外します。仮にCだとしても変更します。
そうは言っても商品1点だけの販売では比較分析ができません。考え方としてAは需要があるわけで、それを伸ばすことは続けて、BやCは早々に切り替えるか、Aのために残すという捉え方です。
何かのエキスパートと考えるとどれも足りない。かといってどれでもいいかというと、どれもそれなりにこなせるために決めかねている。それが現実だと思います。
前述のABC分析で言えば、どれもAでどれもCであり、売上からみたら全てZの商品ということです。
だから「どれでも同じなんだから、どれでもいいから選択するべき」です。
そして選んだ一つをABC分析のA商品にするために努力した方が、結果も早く効果も大きいでしょう。私の場合、BやCの商品が英語やパソコン系ということです。
もちろん後悔してはいけません。迷いが生じては事をし損じます。それは良い事がありません。後悔しない選択にするためにも、キチンとした理由で切っていくことは大前提です。
私のG〜Z商品は、マネジメント経験だったり、プレゼン能力、クレーム対応経験などです。評価されなくても構いません。あとは、家族を持つことや、家を購入すること、子育てやら、そういったプレイベート的なことも一旦はあきらめて、もしもそういうことが出来るようになった時にまた考え選択します。
世捨て人に近いかも知れませんが、一旦メニューから外すという意味であり、自分に需要が生まれればこれはラインナップに加える価値が出て来た時、またABC分析のように比べてみることです。
でも選べない?
それでも選べない。それは本当に心から選べない状態でしょう。恐らく心の底ではどれもイヤなんですよ。そもそも答えが選択肢にすらない状態です。
であるならば、そのどれとも違う別の人生を選択すべきです。
仮に選択肢の中のどれを選んでも他はゼロとは言いませんが、ほとんどを諦めることが必要です。具体的には、関係する物やしがらみを手放す勇気を持たないとなりません。
これらは簡単な話なんです。時間は有限です。時間が足りません。全て行うには時間切れになります。
そうなる前に一つに絞って生きることで、全てのリソースと時間を選んだ道の一点に賭けることができます。その方が成功確率も高まりますし、試行錯誤するので、現状打破をする切っ掛けや突破口になり得るでしょう。
失敗したら? それも成功?
おいおい、上手く行かなかったぞー。失敗して以前よりも悪くなったぞー。
こういう風に思うでしょう。私も2度程同じ気持ちになりました! でも、やはり選び方が間違っていたし、他を捨てきれなくて、心の奥底で迷っていたと思います。本気だったことは事実でも、どこか卑しい気持ちが残っていて、ズルをしていたと反省しています・・・。
仮に失敗して得るものもありますし、仮に失敗だったとしても恐らくそれは本当の意味での失敗ではなく、次の道に必要なことだったと思いますよ。
エジソンも「失敗ではない。ダメな方法を見付けた」という名言があります。ダメなことが分かったという成功体験ですよ。すごくポジティブであり本質です。
個人的にも思うのは、
本当の人生の失敗というのは、何もしないことだと痛感しています。
私事、これまでのぬるま湯の人間関係や、中途半端な知識や経験、それら全てを捨てました!
具体的には携帯電話は必要無い派なんですけど、電話番号を変え連絡先は全て消しました。それも誰にも伝えずに。
それでも困りません。連絡したい人は、何らかの手段で聞いてきます。そうしたら教えますし、これまでも何ら変わらない対応もします。たかが連絡先であって、どうでもいい人との縁が切れても何ら困りませんからね。
断捨離はとても有効です。物だけではないのです。本当の心の声を聞くためにも先ずはスッキリしないと聞こえませんからね。

他にも英語を操れることも伏せています。外人が目の前に居れば英語で話しますけど、敢えてアピールポイントにしません。別にそれを突き詰めるつもりもありません。でも、必要ならなんとか頑張って会話します。それだけの話です。
パソコン系、ネット、サーバー系も得意な方です。しかし、これもできるとは公言しません。自分がやりたいことで出来ればOKです。聞かれれば答えますけど、時間的に出来ること以外はしません。
社会不適合者と思われてもいいやと開き直って、一般的な意味でサラリーマンは辞めました。個人的なことなのでどーでも良い話にはなりますが、必要とあれば雇われますし、そうでなければ固執もしません。色んな物を失って初めて本心と向き合えるようになったのです。遅いですけど・・・。
あなたのやるべきことは?
何かしら人と比べずに、自分の得意なことや好きなことは諦めずに、他は全て諦めている状態でやるべきことをやっていれば、きっと道は開けます。そう思いますし、そう思いたいです。
このブログもその一環です。同じように悩んでいる人に少しだけでも理解者が居ることが伝われれば本望です。
意外と世間は狭くて、自分だけが悩んでいるようなことであっても、同じ境遇や同じ気持ちの人ってたくさん居るんですよ。中にはヒドい人格の人も居ますけど、ほとんどの人は皆親切ですし、自分のプラスになることが多いです。
一つ二つだけ残して諦めて生きると、意外な目標や希望が出来たり、自信が沸いたり、人から頼られたり、良いことばかりです。日常はツラいことばかりで苦しいのは変わりませんけど、自分はまだマシだなーと楽観的に捉えています。
どうなるか分からない中途半端な事柄は時間が勿体ないので、綺麗に手放してスッキリした気持ちで余裕を持って生きたいですね!
少しでも同感していただけて、読んでいただいた人の心が楽になれば幸いに思います。
あきらめて生きるお話でした。
——40代の人に贈る記事は他にも!——


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