転落人生から脱却するには、余分なモノや想いを捨ててポジティブ思考に変われば大丈夫

時代がそうだった。またはそういう考え方の世代だった。

とにかく稼ぐ、人脈を増やす、一般的な人生をなぞる。何かそういった考え方や当たり前の人生を生きることが正しいと思っていた。

そういう人は中高年問わず多いのではないでしょうか。

世の中は甘いと思えるときとそうでないとき

受験に失敗した。
就職活動に失敗した。
社会人になってから挫折した。

こういったことで挫折するということはあります。

そういったときから復活したとき、苦労したから成し遂げたときと違い、以外とスンナリと復活できるときがあります。

私はそうでした。特に転職には苦労したときは、仮に転職できてもなかなか上手く事が運びませんでしたし、余計に苦労しました。

しかし、どうでもいいまで行かなくても、「まっ、いいか」といった軽い気持ちで転職したら思ったよりもやりがいのある仕事で充実したことがあります。

現在は、人間関係も含めて今の仕事にやりがいを感じてますし、何よりも仕事中の方が精神的にも安定しています。

結局のところ、自分がどう思おうと、なるようにしかならない上、何かしていれば日々に変化が生まれ、良くも悪くも環境も変わります。

問題は、どう捉えるか。

大変なストレスがかかる仕事が振られたとき、

「これは修行だ」

「これは終われば成長できる」

「結果はどうあれ真剣に取り組めば評価される」

「仮に評価されなくても自分で自分を認めてあげよう」

現に私は同僚から疎まれても、経営陣には好かれ信用され、気を遣っていただき、立場は悪くありません。別に同僚とは家族でも何でもないのだから、自分の人生の中で仕事として賃金をいただけて、やりやすいように仕事に取り組めればいいのです。割り切るというか、そういうものです。

もちろん同僚にも味方はいます。何も独りで仕事しているわけではないのです。

苦労を苦労とも思わず、ストレスがかかったら、今度の休みはこれを吹き飛ばすくらい遊ぶぞ! これで自分の評価が上げられるかも知れない、今度こそ上手く立ち回ろう、などポジティブ思考に変わっていきます。

実際にストレス対象に取り組むときは何も考えていません(笑)

余計な考えは一切無く、ただただ取り組み、対応が終わっても何もなかったように振る舞います。さ、次。といった感じです。

その繰り返しをしていると、とても楽になります。

え?損な役回りだ? 何で私ばかり、責任はそこまでない、奴隷ではないのだから・・・。様々なネガティブな思考が出てくるのも当たり前です。

しかし、そこでそうだからといって目の前から逃げていては、結局は自分のクビを絞めることになる。

尊敬する上司は、何でもすぐやる。何も不満は漏らさない。ある意味で機械のように淡々と目の前の仕事をこなします。だからといって感情がないわけではありません。時間を置いて、場所が変われば、愚痴もこぼします。私はそういうやり方を尊敬しています。

必死になるのは悪いことではありませんが、何とかしようとあれこれ考え行動しても、なるようにしかならない。だから、転職ならば、厳しい立場で苦しい賃金でも、それ以外を求めてもあまり変わらないから、手に入れた仕事を全うするだけです。

世の中は甘くない。それは間違いではありませんが、逆にあまり拘らなければ日本においては甘い甘い。生死がかかる仕事はそうはありません。死にはしませんし、高望みしなければどうのようにも生きられます。

とどのつまり、高望みし過ぎなのです。上も下もなく目の前のことに当たる。それが継続すると高見に行けます。

ポジティブ思考でありのままを受け入れる

人生において悪い事が起きるとネガティブに陥ることは多々有ります。しかもそれはその通りでしょうし、誰に聞いても「大変」「可哀想」果ては「惨めだ」散々です。

離婚もそうです。親族はもちろん、友人知人からも「まったく・・・」といった感じをされ、ひどいと「離婚して欲しくはなかった」など友人とは思えぬ言葉に絶句したこともあります。

それは誰だって好んで離婚の選択はしません。回避しようとしてもできなかった事情があります。それを無関係の発言のように離婚して欲しくないと伝えても何が変わるのでしょうか。ハッキリしていることはその友人とは付き合えないという事実だけです。

転職も同じです。

「辞めないで」「どうして?」そう同僚からも言われたり、「他に仕事はない」「せっかく良い所だったのに」と、心配してくれていることは受け取りますが、何が分かるのでしょう。転職せざるを得ない事情があり、それを回避しようと相談したときは何も言ってくれない人たちが、いざ転職となると、やーやーと言ってきます。

もちろん転職しないで長く勤めたいのは山々です。しかし、転職が悪だとも思いません。生活するために仕事することは変わらないので、仕事をしないという選択肢はありませんが、どこでどう働いても構いません。

問題になるのは社会的なことや経済的なことです。

いわゆる一般論から外れると、この国においては周りから色々と言われます。どうも奇妙な人生を歩むと、疎外されるようです。それが人からしたら落ちぶれていると認識されるとです。

中には破天荒は破天荒でも、留学や移住、起業などといった変わった選択をしてもそれが羨ましいと思えるような選択肢だとそこまで言われません。しかし、そういった人も見てきましたが必ずしも経済的にも社会的にも成功だとは思えません。それぞれが深刻な悩みの中、選択し、大変な思いをしているでしょう。

こういった一般的ではない人生を歩むとネガティブに取られます。いや、そうではなく、だからこそポジティブに受け止めるべきです。ただ、必ず良い面と悪い面があります。

職が変わって考え方が変わる場合もあります。立場が変わって気がつくこともあります。離婚という悲しい出来事も、少なくても良い面も存在するのです。

私自身は離婚を経験し、本当は家族で居る方が望みですが、離婚したからこそ気がつき、それまでは出来なかった事柄を出来るようになった自分も存在します。

頭で、言葉で理解するのは難しい事です。自分の希望や夢といった大きなことも大事ですが、小さな幸せというか日常の中で満足できること、やりたいことができる、そういった小さなことも大事です。

それはとにかくポジティブに捉えることができると、実はネガティブなこともいつの間にかそうではなくなっていく。

もちろん悩みは尽きませんし、こんなハズでは無かったといった自己嫌悪もあります。しかし、それ以上に得る物も多いハズです。従って、ありのまま、良いことは良かった。悪いことは悪かった。それだけでいいのです。深く考えても何も変わりません。

それが受け入れるということだと思います。

雑念が不幸にする

私は無宗教です。唯一なのは日本教でしょうか。日本に生まれ育った人間として、日本のしきたりや慣習に沿った生き方をしているので、それが宗教と言われればそうかも知れません。

想いが散らかると突破できないと思います。ですから、想いを集中できれば良いのですが、なかなかそうは行きません。

では、どうするか?

まずは物を捨てましょう。断捨離という言葉が流行りました。まさに捨て去ることでその物には何も思わなくなります。想いを断てます。従って1つ減るわけですから、心は1つだけ軽くなります。

私もミニマリストとまで行きませんが、物という物を捨て続けています。まだまだ未熟で捨てられない物も多いのですが、休日の度に思い切って捨ててます。

ゆっくりとやっていますが、ゴールとして、自分の物が段ボールやバック2つ分くらいに収まる程度まで続けようと思っています。

優先順位が人により異なりますが、PCやカメラといった機器、洋服、趣味の用具、本当に使う身の回りのモノだけにしたいと思っています。思い出の品など要りませんし、書籍も読んでいる本だけ、何かの機器も文房具や日常品も予備は要りません。

何か今までの人生で物を多く持ちすぎたという実感があります。

お金を稼いで物を増やして所有物ということに満足してきました。今となっては家族すらも所有物として手に入れたいということだったのかも知れません。社会的にある程度の年齢になると結婚やら出産やら、手に入れていると認められる風潮もあります。決してそんなことはないのですが、なぜかそういう考えに毒されていました。

元々、何も持っていなかった。何者でも無かった。周りに物や関係を配置することで自分を認めて他人にも認めてもらいたかった。遅まきながらそうではない人生の方が充実感が得られることに気がつきました。

全てが雑念だとは言い切れませんが、考える対象を減らすことは精神的には大変良いことです。

何かしら理由をつけて物を配置してきました。

「これは仕事に必要だから」

「今度に役立つから」

「万が一のために」

何かを手に入れるなら何かを減らす。1対1で無くても構いません。あまり増やさないこと。そう心掛けています。

人の思考や行動には限界があります。一点突破まで極端ではなくていいので、雑念が増えすぎないように物を減らし、過去の後悔や未来への不安といった想いを減らし、自分の許容範囲の想いや物に囲まれ、そこに集中して最大限の効果を得る方がスムーズですし、より良い結果が得られると思っています。

シンプルイズベスト。想いはなかなか断てませんが、まずは物を減らすことから楽になってみませんか。

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